ユードリナの記録【長野県立大学】

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【県大S #033】<どこ住む?>~地図から見る歴史編~長野県立大学の学生向け特集

前回の<どこ住む?>~家賃編~では、大学付近の1Kを300箇所調べ、家賃別に色分けして地図にピンを打ち込んだ。

eudorina.hatenablog.com

さて今回は歴史編。大学近隣の歴史について見ていこうと思う。

なぜ歴史編を書くのか

なぜ歴史編を書こうと思ったのか。その理由は私のとある体験にある。

引っ越しで家具を運び込む際、窓の外を見た親がこういった。
「あれ、ラブホじゃない?」
そう、窓から見えたのは「休憩 3000円」と書かれた燦々と輝く看板だったのだ。

うちの近所にはこういった愛の巣がひしめいていて、地元住民に「〇〇に住んでます」と言うと「あぁ~あそこね」と苦笑いされる。

後日、この地区にかつて遊郭があった、と知って非常に納得した。と同時に興味深さを覚えた。土の歴史というのは、現代でもこうして色濃く残るものなのか。

そんなわけで、土の歴史を知ることは良い物件探しに繋がると思うのだ。

 

5つの資料

この記事を書くにあたり、5つの資料を参考にした。買い物編と同様に「北地区」「南地区」などと書きたかったが難しかったので、資料ごとに書いていく。

参考にした資料は以下の通り。

信州デジタルコモンズ、長野県信濃国上水内郡長野市全図(1897)

信州デジタルコモンズ、最新詳密長野市地図(1906)

国際日本文化研究センター、所蔵地図データベース、長野(1912)

国際日本文化研究センター、所蔵地図データベース、長野市中部地圖:實地細密調査(1925)

国際日本文化研究センター、所蔵地図データベース、長野市全圖(1939)

これら資料内の地図の引用は問題がありそうだったので、地図は載せていない。したがって、資料を別ページで見ながら読むことをオススメする。

江戸時代から見るのはキツイので、明治~戦前の地図を選んだ。

 

長野県信濃国上水内郡長野市全図(1897)

www.ro-da.jp

1897年というと、江戸時代が終わり明治時代(1868~1912)が始まってしばらく経った頃だ。この年は「長野市」が誕生した年でもある。

街の発展

この地図を見ると、善光寺の参道沿いに町が発展したとよくわかる。

なお、今の大学がある地域は「三輪村」として当時の長野市とは別だったので地図にない。

鶴賀遊郭

地図の東側、「大字鶴賀」の上あたりに遊郭と書いてある。これがいわゆる「鶴賀新地」と呼ばれる場所だ。

この場所の詳細については次回書こうと思うが、かつて長野市は "一生に一度は善光寺参り" の善光寺と、"県下最大の風俗街" である鶴賀新地によって栄えたようだ。

監獄・師範校・議事院

善光寺の南西に「監獄」と書かれた場所がある。これは1881年に設置された長野県監獄で、1960年に須坂へ移転した。

監獄の跡地は現在、長野市消防局の中央消防署が置かれている。

 

この「監獄」=「消防局」を起点に考えると、地図にある「師範校」や「議事院」が現在の何かわかるだろう。前者は信大教育学部キャンパス、後者は長野県議会議員会館だろう

師範学校の東に接しているのは当時の県庁だ。実はこの県庁、ここに移転してきたばかりなのだが………その背景である "中野騒動" とか書き始めると終わらないので割愛する。

土の歴史:教育機関

さて、師範校の南を見てみよう。「附ゾク学校」と書かれている場所がある。軽く調べたが一体何の付属学校だったのかは不明だ。ここには現在、市立長野図書館がある。

 

善光寺から南へ行った場所に「十念寺」とある。その北西に「学校」とある。

この場所は長野県立大学の学生はおなじみ、現在の後町キャンパスがある場所だ。

長野駅

善光寺の参道をずーっと南へ辿ると、小さく「停車場」と書いてある。1888年に開業した長野駅の事だろう。

 

最新詳密長野市地図(1906)

www.ro-da.jp

20世紀へようこそ。

地図を見ると、1897年のものから色々と変化があるとわかる。まず、街が拡大している。善光寺の参道を中心にしつつ、田んぼだった場所が開拓されているようだ。

3つの注目箇所

この地図で注目したい場所は3つ。

1つ目は「市役所」だ。県庁の東側にある。隣の警察署が現在の長野中央警察署若松町交番と考えると、市役所跡地は現在幼稚園になっていると思われる。

2つ目は「停車場」1897年の地図よりはっきりと書いてあり、線路も読み取れる。長野駅関山駅新潟県)の路線は1897年時点で存在していたはずだ。地図に線路を書き込むレベルまで鉄道が民間に浸透した、ということだろうか。

3つ目は「高等女学校」。善光寺の西側にある。『土の歴史』を信じるなら、絶対に今も学校があるはず……と思って調べたら現在の長野西高校だった。

行政施設

一方で、県庁や師範校、監獄といった行政施設の場所は変わっていない。鶴賀遊郭も相変わらず。内部の構造がわかりやすく書いてある。

 

長野の地図(1912)

lapis.nichibun.ac.jp

うーん細かい。善光寺は地図の右上、赤いマーカーが引いてある場所だ。

しかしこの地図を見ると、善光寺付近が当時どれだけ大規模な都市だったかわかる。地図内で二番目に栄えてそうな、かつての城下町松代町でさえこの規模だ。

ご存じの地名

大学近くを見ると、「本郷」や「三輪村」、「宇木」、「上松」といった現在でも見られる地名がある。

興味深いのは「返目」という地名だ。記事シリーズ【懐古への案内】のために返目神社という神社へ以前行った。この神社は古野村(返目の右に地名がある)によって産土神として厚く信仰されたそうだ。

相変わらず・・・

師範校や県庁は相変わらずの場所にあるようだ。鶴賀新地も同様。こんなにデカく「新地」と書くってことは、やっぱり県下最大の風俗街だったのだろう。

次回で書く予定だが、鶴賀新地はこの頃大恐慌だった。1898年に施行された民法、およびそれを根拠にした内務省の娼妓取締規則により、娼妓(新地で働く女の子)の自由廃業が認められたからだ。

物騒な凡例

この地図の凡例が左側に載っている。凡例とは「地図に書かれた記号や線が何を意味しているか」を教えてくれるものだ。

1912年(大正元年)らしく、陸軍や海軍の所轄・司令部・憲兵隊といった軍関係の凡例が多い。

こんなん地図に書いちゃって、機密事項レベルの代物じゃないか。そう思ったが「大日本帝国陸地測量部」の作成らしい。この機関は日本陸軍参謀本部の外局で、現在の国土地理院の前身だそうだ。

 

長野市中部地圖:實地細密調査(1925)

lapis.nichibun.ac.jp

今からざっくり100年前。

この地図を見て「ん?」と思ったあなた、バッチグー。鉄道が増えてる。この地図ではまず鉄道に注目していこう。

善光寺白馬電鉄

地図の左側を流れる裾花川のそばを、線路が走っている。これが善光寺白馬電鉄だ。長野駅の南西に小さく「善白鉄道長野」と書かれている。

1919年に構想され、当初は『長野駅信濃四ツ谷駅(現・白馬駅)間』を『全線電化』の電車でつなぐ予定だった。

しかし結局は、想定していた区間の一部をガソリンで走らせ、1944年に休止、その後紆余曲折あって廃線となってしまった。

参考⇒信毎本のWEB   Wikipedia「善光寺白馬電鉄」

長野電鉄長野線

河東電気鉄道と長野電気鉄道が合併して、1926年に長野電鉄が生まれた。したがってこの地図の頃は "長野電気鉄道の長野線" である。

権堂駅緑町駅(1945廃止)はこの地図から読み取れる。しかし権堂駅・本郷駅・桐原駅などは1926年開業なので、この当時はまだない。

相生座

地図を眺めていたら、「相生座」を発見した。長野市の映画好きなら一度は耳にしたことがある、日本最古級の映画館だ。

『土の歴史』理論でいけば、前の地図にもその痕跡があるはず・・・と探したら、あった。2つ前の最新詳密長野市地図で同じ場所に「千歳座」とある。

調べてみたら、相生座の前身で芝居小屋だったようだ。

参考⇒相生座と千歳座の詳細があるサイト   Wikipedia長野松竹相生座

長野県立大学の前の前の…

地図の右上の端。ついに長野県立大学の場所がある。「女子専門学校」と書いてある場所である。

桑畑と水田がある場所に、ポツーンと建てられたようだ。

実のところ、入学した当初からそんな気はしていた。
「こんな住宅街のど真ん中に何故学校があるのだろうか?おそらく学校が先にあって、後から住宅街が出来たのでは?」
と思っていたのだ。

県庁移転&噴水

この時代になって、ようやく県庁が現在の場所に書いてある。

あとは善光寺の横に何やら丸いのがある。噴水……ふんすい???

こういった水を使う場所は、特に『土の歴史』として現代にも残りやすい気がする。というわけで調べたら、「城山公園噴水広場」として今もあるようだ。

 

長野市全圖(1939)

lapis.nichibun.ac.jp

ようやく最近だ。といっても戦前だが。

この地図では、川、発展の仕方の2点について考えてみようと思う。

川が見やすい

今までの白黒地図より川が見やすい。さっきの地図もカラーだったが、こっちの方が川がわかりやすく書いてある気がする。

これを見ると、裾花川から水を引いて市内の水田に送っていたことがわかる。現在ではそのほとんどが暗渠だ。記事シリーズ【Route 65】で感じたが、やはり長野は水の都だ。

不思議な発展の仕方

この時期になると、善光寺から離れた地域も発展し始めているようだ。

不思議なのは「鶴賀新地」の地域。このあたりだけ、やけに区画整理された発展の仕方をしている。

新地の中がブロック分けされて発展しているのは長野市中部地圖を見てわかる通りだ。おそらくこのブロック分けを進化させて街を拡大しようとしたのだろう。で、線路をまたいで発展しようとして歪な形になった……のかな?

北国街道

本郷駅、桐原駅の北側の道。いわゆる「相ノ木通り」沿いに町が発展している。これは実にわかりやすい。かつての北国街道があったからである。

北国街道とは江戸時代に整備された街道で、佐渡の金の輸送善光寺への参拝の2つの役割を持っていた。

本郷駅の北を通るルートは、北国街道のうち善光寺宿~新町宿を繋ぐ区間である。

 

終わりに

資料を探しながら徐々に感じてはいた。こりゃ相当なボリュームの記事になるぞ、と。実際はここまでで4200文字オーバーだ。

しかも内容が相当マニアック。誰がこんなん読むんだ……

 

まあいいや。調べて楽しかったし。このワクワクを分かち合える学生がいたら嬉しいな。

次回は「~資料から見る歴史編~」。3000文字くらいにおさめたいなぁ……