記事ネタを探して長野県短期大学のWikipediaを眺めていたある日。
「4年制大学移行構想と混乱」という項目に目が留まった。
いやぁ、これが面白い。なんせ自分が入学した大学が、実は揉めに揉めて生まれたという話だ。
始めに
長野に引っ越した時、「春から大学生なんです」と地元の人に言うと、十中八九「信大生?」と返された。その時の気まずさと悔しさは、今でも忘れない。
しかしそんなだから、てっきり静々と4年制への移行が行われたのだと思っていた。
「長野県 ・長野県短期大学・周辺私大」で揉めまくった話を、まとめてみようと思う。
なお、2つ注意点がある。
1つは私が政治に全く興味が無いという点。今回の話は否が応でも政治について書くことになるが、私自身はどの政治思想も持っていない。政治に染まった学生ではない、と明記しておく。
2つ、一次情報が無いという点。今回の記事はWikipediaの情報を元にしている。出典や参考文献もなるべく参照するが、そのいくつかは閲覧できない。そのため不確かな情報を元にしていることを先に述べておく。
相関図
県短の悲願(1990年代?~)
前提として、長野県短期大学は幼児教育学科などを持つ短大であった。
その歴史は戦後間もない1950年から始まっている。伝統ある教育機関というイメージだ。
県短と六鈴会(県短のOBOG会)は2011年まで20年以上、4年制大学移行を求めていた。したがって、4年制移行構想は「歴史ある短大の強制改革」ではなく「短大全体の悲願」であった、という認識が正しいと思われる。
3人の県知事(2000年~)
大学側の陳情がある一方で、2000~2006年在任の田中県知事は4年制構想に反対の姿勢だった。
転機は2006年、現職の田中知事が選挙で敗れたことで訪れた。村井新知事は前知事の政策を全否定。その流れの一環か、2009年には県短の4年制構想にも積極姿勢を見せた。
2010年には検討会が設置され、アンケート調査などが行われた。
村井知事の後を継いだ阿部知事も構想を後押しし、2011年の検討会で「4年制大学化が必要」との報告書がまとめられた。
これを受け、阿部知事は2014年を目標に4年制大学を開学する方針を示した。
第一章まとめ
4年制大学移行構想の発端から、県知事の開学方針発表までをまとめた。
4年制移行が短大サイドの願いであった点、政治的なアレコレの末に長野県が推進派となった点が要点だ。
次回、第二章は構想初期の混乱に焦点を当てたい。では。